|
オベリスクは、古代エジプトにおいて、大理石の岩場から切り出された一枚岩の高くて長い直立の記念碑である。 四角形の断面を有する石柱は、上方に向かって徐々に細くなり、先端部のピラミッド状の錐体は「ピラミディオン」と呼ばれて、当時は金箔や銅板で装飾され、被覆されて、輝きを放っていた。オベリスクの語源はギリシャ語の「オベリスコ」で、「串」を意味する。太陽神信仰に深く関わりがあり、太陽光線を模したものともいわれている。 古代エジプトの都市ヘリオポリスは、太陽信仰の中心地で、多くのオベリスクが太陽神殿に奉納された。オベリスクがいつ頃から建立されたかについては、いまだ明確ではないが、初期統一王朝(紀元前 2920-2575年)以前から、へリオポリスではピラミディオンに似た「ベンベン石」が太陽神(アトムもしくはラー)に奉納する聖石として崇拝されていた。これが、オベリスク建立の起源であろうと考えられている。古王朝時代の第5王朝(紀元前2490-2340年)以降は、オベリスクの建立が確認されている。中王国時代の第11〜12王朝(紀元前2040-1800年)以降は、ファラオ(統一国王)の統一記念祭、王位更新祭または戦勝記念祭などの折に、王の偉業を称えるヒエログリフの彫文がある1対のオベリスクが、ヘリオポリス、テーベ、メンフィス、ペル・ラムセス、タニスなどの神殿に誇らしく建立されたのである。オベリスク建立の慣習は、新王国時代の第18〜25王朝(紀元前1567-1085年)に最盛期を迎えることとなった。この慣習は古代エジプトの王朝期を通じて営々と継承されたのである。紀元前 30年、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世を最後に3000有余年に亘ったエジプト王国は新興ローマ帝国の初代皇帝アウグストスの支配下に入った。その後、エジプトからローマへ数多くのオベリスクが搬出され、「永遠の都」ローマの繁栄に華を添えたのである。継代のローマ皇帝は50本のオベリスクを持ち出したといわれるが、そのうち現存しているものは、ローマに13本、フィレンツェに1本、イスタンブールに1本だけである。ローマ帝国の興亡から永い時が流れ、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征 をきっかけに、オベリスクが再び注目された。19世紀以降は、フランスのパリ、イギリスのロンドン及びキングストーン・レイシー(イギリス・ドルセット州)そしてアメリカのニューヨークに、それぞれ一本づつ再建されている。20世紀末になり、古代エジプトの神殿に創建されたまま直立の姿で残っているオベリスクはほんの数本を見るまでとなった。それにしても、文明発祥の芳香が丹念に研磨された四面の肌と天空を突き刺すピラミディオンから今もなお世界中へと飛散しているオベリスクの姿には、心から魅了され、驚愕せずにはいられない。 このホームページでは、小生が世界中で撮影したオリジナルの写真をご覧になり、ぜひ、この感動を共有していただきたい。OBELISK! 年表 へ |